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僕たちの姿は言葉にできなくてもここにあるんだ
森永行信(NPO法人ネスト)
我々、障がい者およびその周りの方の生活模様は今の社会ではほとんど知られていないと思います。
僕も24歳ぐらいから引きこもっていたのですが自分が社会に参加していないという強い引け目を感じ自分の生活模様からその中で発生する悩み、苦しみを人に伝えることに強い抵抗感がありました。
もちろん伝えないだけで僕の中には様々な悩み、希望、喜び、そして悲しみ苦しみが存在していたのですが僕が感じることは許されない。そう思っていました。
僕は今ようやく当時の抱えていたものを言葉にできるようになりました。
しかし多くの僕ら仲間は表現する能力、境遇、機会、理解者の支援を持つことができずにいます。そんな仲間こそが苦しみ、葛藤しています。
だから僕はこの映画「道草」を仲間にぜひ見てほしいと思っています。
僕たちの姿は言葉にできなくてもここにあるんだ。
お前の姿はちゃんと見えてるぞ。と。
この映画はそう僕らにもエールをくれると思ったからです。 -
次に道ですれ違ったら笑顔でいよう。温かい眼差しを送ろう。わが子には偏見なく育ってもらおう。
40代・女性
道ですれ違いざまに大きな声をあげられてビクッとした後、疲れと諦めが滲む親御さんの姿に一瞬哀れみがよぎり、またすぐ自分の日常に戻る。自閉症や知的障害、そういう症状や障害を持つ人を差別しないと頭でわかっていても、それ以上知ることもなく知ろうともせず今まで来てしまいました。
息子のクラスメイトにそういう子がいて「そういう子には特に優しくしなきゃいけないよ」と言い聞かせるのだけど、「そういう」ってどういう?自分はちゃんと知らない。実はなにもわかってない。そんなときに、この試写会の案内をいただきました。
映画に登場するのは20代の男性3人、それぞれ自閉症や重い知的障害を抱えながら、親のいる家を出て、ヘルパーさんの手を借りながらアパートにひとり暮らしする日常が描かれます。
散歩し、買い物し、スケボーし、イライラし、灰皿を蹴ってしまい、人を触ってしまい、なだめられ、謝り、ヘルパーさんと二人三脚でがんばって家まで帰りつく。
大声を出しモノを叩く裏で本人たちの心にさまざまな葛藤があることを、恥ずかしながら初めて知りました。映画自体はほのぼのしたトーンで、笑いがこぼれるシーンもたくさん。宍戸監督の優しい視線を通して、自然の移ろいのなかで、本人たちとずっと付き合っているヘルパーさんたちの温かさ、本人たちとの絆、家族が前向きになっていく姿を感じました。
でも家に帰ってから読んだパンフレットには、親御さんによるこれまでの壮絶な手記が刻まれていました。入所施設での虐待、投薬のスパイラル、病院の無理解、周囲との軋轢…本人と親御さんの苦しみを誰が救ってやれるのか。これまでも、外に出せず家に長い間監禁された末に亡くなったケースが何度かニュースで流れ、そして津久井やまゆり園の忌まわしい事件。それはもしかしたら、ギョッとして、憐れんで、他人事として終わらせようとするような空気の集大成なのかもしれない。
次に道ですれ違ったら笑顔でいよう。
温かい眼差しを送ろう。
わが子には偏見なく育ってもらおう。
題字を書いたリョースケくんがうちの子どもと年端の変わらない子どもたちと一緒に遊ぶシーンに、やっぱり希望を感じずにはいられません。そして、家族の負担が減るように、本人たちが社会のなかで自立して生きていける機会がもっと増えるように、この映画がたくさんの人の目に留まりますように。
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そして私に「優しさとは勇気の異名であるのだ」と誘ってくれるのです
よしだよしこ(フォークシンガー)
国家、社会、世の中、世間、彼ら私たち。こういう言葉が頭の中でグルグル忙しく膨らんだ時、私はひと呼吸おいて、今目の前にいる一人のひとのことを思うようにします。そうするとさっきの言葉たちが何か実体のないもののように萎んでいきます。さて、道草の散歩のシーンは少し羨ましくてとても美しいです。
そして私に「優しさとは勇気の異名であるのだ」と誘ってくれるのです。ほんとうにありがとう。 -
どんな障がいが重たくても、生活を支える人やささえあえる人がともに生活できるきょうせい社会めざして生活できるのが道草のいいところだなあ
植松龍一 (ピープルファースト愛知 事務局長)
ぼくは、グループホームで10年すごしています。ぼくが考えた自立ににてるなあって思います。重度知的障がいの人や周りがしんらいかんけいがないと一人くらしができないと思いました。しんらいかんけいを作るには1日2日ではできません。毎日生活の中でヘルパーと当事者と一対一、とことんつきあっていく中でできると思います。
むかし、ぼくは、けいさつに支援者といっしょにわすれものを取りにいった時、支援者もあやまるしぼくもありがとうと何回もいって最近ではわすれものをけいさつしょに行くことがなくなりました。どんな障がいが重たくても、生活を支える人やささえあえる人がともに生活できるきょうせい社会めざして生活できるのが道草のいいところだなあってぼくは映画を見ながら思いました。
やまゆり園の事件を受けてぼくも外に出るのがこわかったです。最近ではぼうはんカメラや世話人さんやスタッフがいないからじっかがいいという人もいますが、やっぱり一人の人とその人を仲間や家ぞくや一人くらしのきぼうにそえた生活、当たり前の生活ができてとうぜんだとぼくは思いました。
ぼくのゆめは二人くらしを仲間としたいという目ひょうでがんばっていきたいです。ぼくは、はじめての人と会う時ドキドキしますが最近では、仲間と高山やいせ旅行にも行きました。自信がつきました。ちいきのみなさん、いつも朝おはようございます。と言うことをにっかにもしています。ぼくは、もっと変ったチャレンジができ、社会全体を変えていくのがぼくの仕事かなと思います。しんらいかんけいを作るのはかんたんではありません、その人の人生を大切にしてほしいし、ちいきで生活するとあらためて思いました。
あらためて、ししどかんとくのえいがを全国各地で伝えていってほしいなあとぼくは思うので全国各地の人世界の人に、かんどうできる、えいがをいっぱい作ってください。ぼくもおうえんします。ぼくも毎日の生活がんばります。 -
こんな時間を、すべての人が持つことができたら、わたしたちは自分にも、自分の目の前の人にも、もっともっと優しくなれるだろう。
纐纈あや(映画監督)
人はこの世に生を受けてから、様々な人との出会いや環境、その中での経験を通して、自分を形作っていく。はじめは親、家族。さらには親戚、近所の人、友達、と広がっていく。様々な関係性があることが、人を豊かにし、生きていく上でのセーフティーネットにもつながる。
「道草」に出てくるリョースケさんや、ヒロムさん、ユウイチローさんと、自立生活支援をするグッドライフのスタッフは、友達であり家族のような存在だ。物理的には、介助する人-される人に見えても、そこには様々な思いや願い、エネルギーが行き交い、互いが生きる支えになっている。人と人とが関係するとき、そこには双方向の交感が必ずあるのだ。その様子を、宍戸監督は丁寧に描いていく。
たったひと りの世界では、自分は見えない。自分を映し出す世界、他者の存在があって、初めて自分を知ることができる。道草をしながらふたりで歩く散歩は、この世界とつながり、相手の瞳に自分を映し出す時間。こんな時間を、すべての人が持つことができたら、わたしたちは自分にも、自分の目の前の人にも、もっともっと優しくなれるだろう。